
楽器の紹介
この、美しい心をもった、チターという楽器は、古い昔、一本の弦のシュイットハルト(Schithalt)という楽器が変化したといわれています。チターという言葉は、古代ギリシャ語のキターラ(Kithara)という言葉に由来していて、中部ドイツの標準語としてはこの単語はありませんでした。 チターという楽器は、戦争のときに、東方から十字軍(?)あたりが地中海を通 って、ヨーロッパにもち込んで、イタリア、シシリア、スペインを通って北へとやってきて、時代とともに改良されたともいわれています。また、別の説による と、1499年生まれのスイス人の学者トーマス・プラッター(Thomas Platter)は、薄板の上に弦を張り、その下に駒をつけ、毛のついた弓のようなもので演奏したという記録も残っています。
後に、様々な人々によって少しずつ改良が加えられ、現存する最古のチターは1675年と記されたもので、南チロルのブリックセン地方(Brixen)で 製作されたものです。 この楽器の形は長方形で、メロディー用の2本の弦と伴奏用にも又2本の弦があって、すでに14個のめずらしいフレットまでついていて、そのフレッとには 音階が作られています。1763年に作られたというチターを見ると、弦の張り方に進歩が見られ、メロディー弦が3本、伴奏弦が12本、指板に15のフレッ トがつけられています。このころのチターはすべて長方形の箱型でした。
18世紀の末になってその外形に変化が出はじめ、ドイツの楽器作りで有名な町ミッテンワルド(Mittenwald)で私達が今日使用している洋梨型のチターが作られました。このころの演奏法はほとんどトレモロだったようです。
チターがオーストリア及びバイエルン以外のところで知られるようになったのは、アルプスが知られることと深い関連があり、18世紀の末になると、旅行者 が美しい山々の噂をもとに、景色及び住民を訪ねたり、また芸術家達が自然のままの姿や色彩 豊かな民族衣装を描きにやってきました。また、チロル人がナポレオンと戦ったこともヨーロッパ人にとって大変な興味を起こし、チロルの歌等が印刷されたチ ターという楽器がヨーロッパ中に知れ渡ったようです。 1828年6月にワイマール(Weimar)の町で、チターのソロやフルートを加えた二重奏をゲーテに聞かせたという記録が残っています。
1830年前後からたくさんのすばらしいチター演奏家が生まれ、ベルリンのプロイセン宮廷での演奏をはじめ、各地でチターの教育や演奏活動が盛り上り、 ウィーンのチター製作者でキンドルという人は、弟子たちと共に1895年までの50年間に、5万台のチターを製作した記録があるのですから、他の製作者の ことも含めますと大変な数になる訳です。
19世紀末にはヨーロッパ各地にチター協会が生まれ現在は世界各地にまで及んでいます。
チター音楽は非常に幅広く、チェンバロに似た響きもあるところから、ルネッサンス音楽をはじめ古典曲にもよく使われ、現代作曲家の中にもこの楽器のため に作品を書いている人も多く、ドイツで発行されているチター専門誌には、よくこれらの作品や各地のチターコンサートのお知らせがのっています。 教育の面では、ドイツにチターの先生を養成する国立のアカデミーもあり、チターの夏期講習、チター音楽コンクールも開かれたりします。日本チター協会が世 界に名乗りを上げたのが1982年8月7日でした。世界の各チター協会との文化交流に常に務めながら活動をしています。
1949年、第二次世界大戦の傷跡も癒えぬウィーンを舞台に、映画「第三の男」の撮影が開始された。監督キャロル・リードは、この映画の音楽に思慮して いた。そのような時に、ウィーンのチター奏者アントン・カラスとの出逢いが訪れた。カラスはロンドンのリード邸で作曲に取り組んだ。 映画は完成し、1949年9月ロンドンで初めて公開されたときの人々は感動のあまり呆然としたという。 数日後、カンヌ映画祭にてグランプリを受賞した。日本での公開は3年後の1952年9月であった。
20世紀の最高傑作といわれる映画「第三の男」は、1999年に制作50周年を迎えた。今もってその人気は衰えを見せず、当時の映画全盛を過ごした人々にとって、この映画は青春そのものだ。
著者自身が日本全国に於ける演奏や講演を通して接した聴衆との対話の中で、多くの人々がこの映画や音楽に深い関心を抱いていることは驚くほどだ。
1998年発行されたキネマ旬報特別号「映画人100人に聞いた洋画ベスト10」においても、「第三の男」は1位 だった。映画評論家の故淀川長治氏は「第三の男は映画における永遠の教科書である」と語り、また故荻昌弘氏も「この映画を観ずにして、映画を語ることは出 来ない」とまで述べている。
この映画は、これほどに多くの人に慕われているなかで情報は公開されず、様々な憶測や噂が常に先行してきた。特に、映画のヒットに多大な功績を残した音楽に関することも全く事実とは異なる情報が一人歩きしている。日本国内での出版物も同様である。
事実に反する情報と噂が飛び交うこの社会で、何が正しく何が信じられるのかわからないような現実の中で、私は資料に基づき正しいことを歴史に残すという 作業と使命を痛感した。正しい情報と資料はなぜ公開されなかったのか。その最大の理由は、この映画の音楽、作曲、演奏を担当した故アントン・カラスとその 家族が被った非望中傷の痛みからだった。彼らは口を閉ざすことを余儀なくされたのである。
キャロル・リード監督は夫人と彼らの痛みを共にし、これらの件を含めてカラス家の人々を支えてきた。映画が制作されて50年、新世紀が訪れた今日、アン トン・カラスの家族は、世界でただひとり、初めてこの貴重な資料を著者である内藤敏子に託した。 30年来の親交と深い信頼関係によって長女ミミーはインタビューに答えた。チターの専門家から見た映画「第三の男」に関する出版は世界で初めてのことであ る。本書は秘蔵の資料200点と長女ミミーと家族の記憶をたどった話をもとにまとめたものである。他、チターに関することや貴重な歴史的エピソードも初め て紹介されている。
日本全国の映画ファン、チターファンにとってこの出版が歓びになる事を願い、映画研究者にとって解明の糸口となってほしいことを願っている。